天使には名前がない。
多くの天使は名を呼ばれることがなく、呼ばれたとしても階級名であった。
固有名がわかっているのは最古の天使のみで、生まれてから死ぬまで
名前を呼ばれないままなんて事もよくある。

呼ぶ事も覚える事も出来はしない、自我が芽生えようとやれる事など高が知れる。
そうすることで彼等は天上の使者として忠実に動く事が出来る。
多くの天使は何故名前が与えられないかなど知らないし、知ろうともしなかった。

-

ある天使が守護の任により地上へ降りる事となった、町いちの資産家が子宝を授かったのだ。
天使の使命はじきに産まれる小さな命を導き、悪魔から守ることである。
「近くで悪魔を見たと聞いた、くれぐれも怠らぬ様に」
天使長に命じられるまま、一足先に地上を降り資産家の家へまっすぐ向かう。
天使は自ら姿を見せない限り人間には見る事ができない、
姿はもちろん気配すら勘の鋭いものが僅かに感じる程度。

誰に見られる事もなく、淡々と産みの苦しみに悶える女の痛みを和らげ
小一時間をかけようやく赤子の産声があがった。
「あ、あなた、産まれたわ…」
「女の子だよ!良かったなぁ…良かったぁ…」
涙すら滲ませようやく授かった赤子の喜びを分かち合う、
天使はその様を見ても何が嬉しいのかわからなかった。
産まれてきた一人娘はサラと名を与えられ、親や従者達から惜しみ無く愛情を注がれ
何処か素朴で、美しいと言うより可憐と言う言葉が似合う少女へ成長していった。
天使はそれをみても何とも思うことはなかった、あの日までは何も感じることがなかった。

その日はひどく暑く、天使は水浴びのため近くの泉を訪れていた。
あまり水を吸わせすぎては飛びにくくなってしまうが、こう暑いとそうも言えず
天使はわずかに表情を歪め、腰まで浸かって水を頭から被っていた。
「え…」
声に振り返ったのと、目を白黒させたのは同時だった。
そばかす顔に栗色のおさげ、顔いっぱいに驚愕の表情を浮かべた少女が立ち尽くしている。
天使は少女が何者なのか、名前を言われずとも分かった。
「サラ…?」
「え?なんで私の名前を…」
「あぁ、いえ。水浴びに来たのでしょう、すぐ済ませますから」
珍しく無表情を崩し、身を隠すように頭から水に浸かり
揺れる水面から様子を窺うように見上げると、覗き込むサラの姿が見えた。

「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫…です」
同士に知られたら赤っ恥だ、守護天使ともあろうものが人間に見られてしまうとは、
居心地の悪さから早く立ち去ってしまおうと派手な水音を立て、
全身ずぶぬれで泉で出ていこうと背を向けるが。
「あの」
「どうされました?」
「ん?」
災難は重なるもので、見せるまいとしていた翼までむき出しになってしまっていた。
もはや自分が何者か隠し通すことも難しくなってしまい、顔が赤くなる。
「その翼は…天使様ですよね?何があってこんな所に」
もう天使は先程のようにサラの呼びかけに答えることはなく。
逃げるように木々の間をすり抜け、あっという間に姿をくらませてしまった。



あの日、サラに姿を見られてしまってからというもの
彼女にどうやら気配を感じ取られるようになってしまったらしく、
部屋の片隅で身を隠すように縮こまっていても
時々「見えている」と言うように目配せされるようになった。
あとで彼女から聞いた話だが、自分が水浴びしていた泉は
今や「天使の泉」としてデートスポットになっているそうだ。

そして、サラも「天使を見た娘」として会いたがる者が後を絶たないそうで
余計なことをした気もするが、どうやら良い方で進んでくれているらしい。
そこでようやく天使は肩の荷が下りたというように深く息を吐く。
初めて地上に降りた時は、こうやって自分が溜め息をつくなど予想もしなかっただろう。
「ところで、貴方のお名前は…?」
「私の名前?」
「ええ…守護天使さまですもの、呼びやすい様に名前を覚えておこうと」
人間には名前がある、それは極当然のことだった。
彼等を見て人間と呼ぶなど、人にあらぬ存在でない限りあり得ない。
そして名前で呼ぶことが親愛を現すとは、サラの守護をする中でよく知っていた。
言ってしまえばサラは自分と親しくなる切欠が欲しいのだ。

「申し訳ありませんが…私は名乗る事が出来ません」
「名乗れない…のですか?」
「いえ、名乗るもの自体がないのです」
大天使クラスとなると別だが、生まれてから日の浅い者に名前など与えられるわけがない。
天使にとって固有名を持つというのは栄誉であり、叶わぬ夢であった、
何の疑念もなく返した天使だったが、サラの表情は悲しげに見えた。
「…何か問題でも?」
「よく父が言っていましたわ、人に話し掛ける時は名前で呼べと」
ダメならいいと笑う姿がまた痛々しく、報告のため天界に帰る顔は浮かなかった。
十中八九断られるだろうが、ダメ元で頼んでみようか?
資産家の娘を悪魔から守れと命じた自分の上司…ウリエルに。

「名前が欲しい、だと?」
「ええ…」
「馬鹿者が、名前など持とうものなら貴様まで悪魔に狙われる」
ウリエルの返事は至って冷ややかなもので、天使には顔どころか流し目ひとつ送らず
退室も出来ず黙って待つ向こうで机の書類を黙々と片付けていく。
机の紅茶にも手を付けず、湯気を立てていたものもすっかり冷めてしまっていた。
「なぜ急にそんなことを言った?」
「あの娘が、人間と話すときは名前があったほうがよいと」
ペンを紙に走らせる音が先ほどより強くなってきた、苛立っていると音でわかる。
ようやく手を止め、羽ペンをインク瓶に押し込むとウリエルは咳払いした。
相手に言い聞かせるとき彼が必ずやる癖だ、下手に刺激しないよう口を引き締める。

「多くの悪魔は天使の成れの果てだ、お前の様な未熟な天使を引きずり込もうとする」
「何故ですか?元は天使と言うなら…」
「あれほど浅ましい者はいないぞ、特に私が知るものは」
「ウリエル様、その知っている悪魔とは…」
思わず好奇心から訪ねてしまい、即座にハッとした顔で頭を下げた。
ウリエルは神経質なところがあり、不用意な発言は逆鱗に触れかねない。
冷や汗を垂らし硬直する天使を前にしても、ウリエルはただ溜め息を吐くばかりで。
「わかったなら名前を持とうなんて考えるんじゃない、サラも直に嫁ぐ」
「あの…なぜ私達には名前が与えられないのでしょう」
「………」
一度はインク瓶に押し込んだ羽ペンを手に、俯きがちだった顔をこちらへ向ける。
ウリエルは正直怖く、吊り目に口を一文字にしているため怒っているように見える。
本人にその気がなくとも、目を合わせるとつい硬直してしまう。

「…下がれ、余計なことは考えようとするな」
半ば追い出すような形で天使を退室させ、机上の書類を黙々と片付けていく。
そして最後の1枚に朱印を押したところで視線は天井へ向いた。
「天使が人間に惹かれたことは数あるが、それが結ばれたことはないのだ」
手を付けないまま置いていた紅茶は、すっかり冷めきってしまっていた。

-

ウリエルに名前が欲しいと頼み断られてから早3年、サラも15の誕生日を迎え
何処へ嫁いでも恥ずかしくないような美しい娘へ成長していた、
気立てのよい娘だ、直に縁談の話が舞い込んでくることだろう。
サラが嫁いだ時点で役目は終わる、結局一度も名前を呼ばれないまま天界へ帰っていく、
そう考えると、天使は胸が抉られる様な感覚すら覚えるのだった。
自然と表情も浮かないものとなり、賑わう大通りの様子も目に留まらず。
「そこの兄さん」
「!?」
目を見開き声のほうに向きなおると、占い師風の男が腰かけていた。
簡易なテーブルの上には様々な小道具やカードが乱雑に並べられ、
フードを目深にかぶり、俯いているため表情は全く伺えない。
「カード占いはいかがかな?」
相変わらず男は俯いたまま、こちらにカードを差し出してくる。
不気味な容姿に似合わぬ陽気な声と、自分が見えているかのような反応に思わず面食らった。
今こうしている間だって、サラ以外には見えていない筈なのだが…。

「私が見えているのか?」
「見えるから、こうして勧めてるんじゃないか」
「…いくらだ?」
男の要求してきた代金は思った以上に安く、受け取るや早速準備を進めていく。
占いなんて信じてはいないし、それに振り回されるなんてと軽蔑していたが
準備を進めていく占い師の言葉は、まるで心を見透かしているかのようであり。
「さぁ、手を出して」
気付けば机の上には怪しげな小道具やカードがずらりと並び、色白の手が差し出されていた。
なぜ手を出す必要があると訝しげに見つめると、占い師は薄く笑ったように見えた。

「必要なのか?」
「これをやるとよく当たると有名なんだ」
「…随分と変わった占いのやり方だな」
「我流だよ、身内には評判よくてな」
最初はタロット占いだろうかと思ったが、よく見るとカードは5枚しかなく、全て白地で
自分の手にカードを1枚ずつ握らせては、それを指でなぞり…仕上げと言うように一枚一枚と口づけを交わす
まるで何かを描くような手付きだが、何をしているか全くわからない。
我流の占いで当たるものか?そう思っていると、占い師は指でなぞるのをやめ机に並べていく、
仕上げと言うように占い師が呪文を唱えつつカードの上に手を滑らせると、
実に不思議なことに、何も描かれていなかったカードに絵が浮かんできたではないか!
描かれた絵は資産家の娘に、それを見守る天使の姿…そこに描かれているのは今の自分の姿そのものだった。

「想い人がいるようだな。だが…結ばれることも振り向かれることもないだろう」
「それが使命だからな」
「クックック…使命ねぇ」
低くあざ笑うような声と共に占い師はカードを1枚ずつ裏返し、最後の1枚をこちらに向けてくる。
そこには先程浮かび上がった絵とはまた違うものが描かれており、資産家の娘が馬車と共に遠ざかり
それを寂しげに見つめる天使の後ろ姿が描かれていた。
「それは本音かな?そのカードが導いてくれるだろう…」
「何…?あっ!おい…」
占い師はそれ以上の返事は返すことがなく、呪文を口の奥で紡ぐと煙のように掻き消えてしまう。
天使の手元には只、白地のカードが残されるばかりとなった。
「消えた…?」
魔法で転移したとしか思えない姿に先程のカード占い、もしや人ならざる者だったのか?
人ならざる者とするなら随分とお節介だなと天使はサラの元へ帰っていく…
彼女に早速縁談の話が舞い込んだそうだ、彼女は嫁げることを心から喜んでいるようだった。
「天使様のおかげです」と何度も礼を言う姿に、天使はちょっとはにかんだような笑みを浮かべ、
サラの嫁ぎ先だと言う男の顔を見に行く、見る限り身形もよく誠実そうで、何事もなく縁談は上手く行きそうだ。

これで守護天使の責務から解放される、天使がそう安堵した矢先であった。
資産家と話す間ずっとにこやかな笑みを浮かべ、誠実に見えた男が本性を現したのは。
「けっ、小娘かよ!もうちょっと抱き甲斐のある女が良いんだがな」
男はその場に天使しかいない事を良い事に、下卑た表情でサラへの罵声を吐き散らかす。
資産家は気付かず縁談を進めてしまったようだが、この男は詐欺師として有名で、
金を毟り取っては然も悲劇に見舞われたように姿を消すと言う、悪質な手段を繰り返していたのだ。
「まぁいいさ、金蔓だと思えば多少は愛着がわくさ…クックック」
あの男を放っておいたら縁談がまとまり、サラがあの男に嫁いでしまう。
都合のいい金蔓として毟り取られた挙句ゴミの様に捨てられてしまう、
気付けば天使は取り返しのつかない事をしたと言うように、頭を抱え叫んでいた。
「う…あああああああああ!!」
何故あの男を追い返さなかったんだ!このままではサラが人の皮を被った悪魔に穢されてしまう!
一体どうすればサラを悪魔から守れる?天使の目には、先程と違う光が宿った。
「サラ…あの男に、サラをやる訳にはいかない…!!」
天使の任は悪魔からサラを守ること、今守れずして何処で彼女を守ると言うのだ!
何が何でも守らなくては…心より彼女を愛してくれる者が現れる、その時まで!
「私が、サラを守らなくては…!」
守護天使は基本的にそのままでは人間への干渉は出来ない。
しかし、干渉する手段などいくらでもあったし…場合によっては殺すことだって出来る、
天使の手には、サラを守ると言う強固な意志を象ったかのような、鈍く光るナイフが握られていた。



縁談がまとまり、あの男がサラの元に訪れた…その日の夜に男は怪死を遂げた。
サラが突如豹変したように男の首を絞め、そのまま凄まじい怪力と共に絞め殺してしまったのだと言う。
勿論その評判は瞬く間に風に乗り、人々はサラを悪魔憑きだと忌み嫌うようになった。
それでも資産家の金目当てに縁談を持ち込む男たちが居たが…皆、サラに首を絞められ命を落とした。
彼女すら「何故夫が婚約の初日に死んでしまうのか」理解できないと言う状態にあり、
何処へ嫁いでも恥ずかしくないような、美しかった姿は心労によりやつれ衰えていた。

そんなある日、サラは何故こんなことになってしまったんだろうという気持ちを
少しでも紛らすように「天使の泉」へと足を運んでいた。
かつては恋人たちで賑わった泉はしんと静まり返り、水鏡に泣き腫らした顔が映り込む。
自分はこの泉で「天使」を目にしたのだった、天使様は何処へ行ってしまったのだろう?
今も見守ってくれているのだろうか?そう啜り泣き始めたサラへ近付く影があった。
「サラ…」
「ヒィッ」
何故か名前を知っていたそれにサラの顔は恐怖に引き攣り、数歩後ずさってしまう。
現れた人物は「なぜサラが怯えているか」理解できないと言うように困惑した仕草を見せ、
何故逃げるのかと再び近寄り手を伸ばす、ついに堪え切れないようにサラが悲鳴を上げた。
「あ、悪魔!!」
「え…?」
「悪魔!悪魔がぁぁぁっ!!近寄らないでぇぇ!!」
「そんな…私が悪魔なわけが」
泉に映った姿が目に飛び込み、そこで初めて影は自分の容姿が変わり果てている事に気付いた。
肌は死者の様に灰色がかり、澄んだ目は落ち窪み、眼窩の奥で鈍い金色が揺れ動く。
頬はこけ、髪はくすみ、翼は今にも腐り落ちてしまいそうなほど朽ち果て、
皺が寄った顔を恐る恐る撫でるその手も、鋭利な爪が飛び出ていた。
「サラ…」
玉を転がす様だった声の代わりに喉から出てきたのはしゃがれ声、
なんて醜いんだ、今の姿は悪夢を見ているのかと思うほど醜かった。
「み、見ないで下さい…サラ…」
「いやあああああああああ!!」
「さ、サラ!サラ!!」
天使は自分だと叫びたかった、今までずっとサラを守ってきた天使だと叫びたかった。
しかし固有名を持たぬ天使では、聞き慣れた名前を呼ぶことで安心させるこすらは出来ず、
悲鳴を上げながら屋敷へ逃げていくサラの姿をただ眺めるほかなかった。
「サラ…ああ、私ですよ…」
名前さえあればこうはならなかったんだ、自分が名前さえ言えればこうは。
天使だったものの落ちくぼんだ目からは涙が零れ落ち出していた。

「どうだ、想い人に名前を呼んでもらえたか」
「ッ!?」
「おっと、俺はただ占っただけだよ」
サラが泉から姿を消した後、天使だったものの背後にはあの時の占い師が立っていた。
睨み付ける向こうで占い師は自ら正体を現すかのようにフードを掴み、素顔をさらけ出す、
そこからは炎のように赤い髪に琥珀色の瞳を持つ青年の顔が現れ、その耳は悪魔特有の尖ったものとなっていた。
「やはり悪魔か!こうなったら貴様だけでも…」
「俺のせいみたいに言うのはよせよ、お前がそうなるのを望んだのさ」
「黙れ!!」
殴りかからんと駆け出すが、その足が途中で蹴躓き地面に倒れ伏してしまう。
こんな僅かな段差ですら転んでしまうとは、一体自分はどうなってしまったんだ?
表情を歪め睨み付ける先で、青年はにやにやしながら見下ろしていた。
「まぁまぁ…そう怒るなよ、アスモデウス」
「…アスモデウス?」
「今の君の名前だよ」
「な、名前…私の?」
一体いつアスモデウスなんて名前がついたんだと訝しげに眉を上げると
青年は無地のカードを取り出し、それに口づけをするとこちらへ放ってくる。
あの時のカード占いの様に、無地だったカードには絵が浮かぶ上がっていた、
そこには泣き叫ぶサラとそれに取りつく悪魔の絵があり、カードには「アスモデウス」と書かれていた。
「言ったろう、カードが導いてくれるとな」
「あ…あぁ…!」
アスモデウス、それが自分の…サラを守らんとして行った悪行を示す名前。
震える手でカードを掴み、じっと睨むと絵の中の悪魔が笑い声をあげ消え去った。

「これは危険だ!すぐに天界へ」
「はっはっは…天界?その姿で行けると思うか」
「き、貴様ぁぁっ!!」
怒りに任せ放った魔法弾を直に受け、青年の顔が苦痛に歪む。
しかし、その顔はアスモデウスの反応を楽しむかのようなもので
残念そうに、おちょくるように、青年の姿は煙のように掻き消えた。
「あーあ、君ピッタリと思ったのに」
先程まで男がいた場所に追い打ちをかけるように、もう一発魔法弾をぶつけると、
辺りに瘴気が満ち始め、天使の泉と言われた其処を見る見る穢していく。
でももう、それも今の自分には関係ない事だった。
「サラ…私は、こんな姿でも貴方の傍にいられるのでしょうか」
もう自分は守護天使ではない、アスモデウスと言う名の「悪魔」なのだ。
しかし、それでもアスモデウスはサラの傍に居たかった。
彼女を心より彼女を愛してくれる者が現れる、その時まで
守護天使だったころの任を全うするその時まで。

「天使が人間に惹かれたことは数あるが、それが結ばれたことはない…そう言った筈だがな」
その頃天界では、ウリエルが全てを見透かしたかのような苦々しい表情で一人呟いていた。

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